慢性疼痛 痛みのメディア|ペインと。

スポーツ人生の歩みと、突然の闘病のはじまり

Date: 2024/05/15 | Writer: どいちゃん

慢性疼痛メディア|ペインと。のディレクター土井 美幸です。

私の趣味はリハビリです。リハビリマン、ペインとレッドというポジションで企画・運営に携わっています。

今回の連載企画では、私が現在通院している病院の集学的医療についてお話ししていきたいと思います。現在通院している集学的痛みセンターには32件目の病院で出会い、今まで本当に諦めずに進んできました。その軌跡を少しでも目にして頂けると嬉しいです。連載を通して少しでも闘病中の方のお役に立てればと思い、5話にわたる連載として綴っていきます。

健康な人生。これまで歩んできた道のり

まずはじめに、私の過去と闘病に至るまでの経緯を簡単に説明します。

自分で言うのもなんですが、私は運動神経抜群なスポーツ少女でした。小学3年生の時から始めたソフトボール。着実に必要な力を身につけていき、高校はスポーツ推薦で入学し、実業団チームからのスカウトもありました。これまで歩んできた道のりの途中で体育教師になりたいと夢を持ったことから、大阪体育大学へと進学しました。

大学時代は国体選手に選ばれることもあり、競技に没頭する毎日でした。小学3年生から本格的にソフトボールを始めましたが、全く怪我をしたことがないほど強靭な身体で過ごしてきました。

人生ではじめての怪我がまさかこんなことになるなんて…

順調に夢を追いかけている中、2011年4月に大学2年の春のリーグ戦がありました。その試合中、打撃の時にファーストベースを踏み損ねて右足を捻挫…。これが私にとってはじめての怪我でした。ブチッと音がしました。しかし、その後も試合には出場し続けました。試合後は履いているスパイク(靴)が脱げないほど足が腫れていました。

なにせ人生初の怪我だったので、1日寝たら次の日には治っているだろうと思っていました。

しかし、そんなに状況は甘くはありませんでした。右足はくるぶしがなくなるほど腫れていて、地面につけることも出来ないほどの痛みだったので、次の日に整形外科を受診しました。診断は、足関節捻挫(前距腓靱帯損傷、踵腓靭帯損傷)。医師からはギブス固定を勧められましたが、この先にも試合の予定が続くので私はそれを拒否しました。

サポーターを3週間固定して生活するという指示の元、この時から理学療法も開始することになります。本来であれば競技はドクターストップでしたが、何ごとも諦めが悪い当時の運動バカな私は我慢などできるはずもなく…日常生活はサポーター、競技の時はテーピング固定で生活していました。


5月にリーグ戦が終わり、一旦治療に専念しようと思った時でした。国体選手に選ばれ、私は同年8月まで競技を継続することになります。受傷時からは通院リハビリを週に3回、そして学内での『アスリハ』にはほぼ毎日取り組んでいました。

8月。国体が終わる頃には状態も改善されてきたように感じていましたが、専門医に診てもらうことになります。9月にMRIの画像データを持って受診すると、損傷だと思っていた靭帯が断裂、そして足の甲に神経腫があることが判明します。この改善には手術が必要と言われました。

9月末からは秋のリーグ戦があり、手術するかどうか悩みましたが、次の春リーグ(2012年4月)の復帰を目指して手術を決断しました。そして10月に靭帯再建術と足の甲の神経腫の切除術を実施することになった私。3週間のギブス固定期間を経て、本格的なリハビリが再開されました。この時は、術後3ヶ月で競技復帰可能と言われていました。

治らない不安や焦りを感じる日々

2012年4月の競技復帰を目指して、ひたすらに直向きに通院リハビリやアスリハに取り組んでいました。しかし経過が悪く、思うような状態の改善が見られませんでした

2012年は1度も競技復帰出来ることなく、時は流れていきました。次は「2013年の4月競技復帰」を目標に、2012年11月には2度目の手術として滑膜切除術を実施。またもや術後3ヶ月で競技復帰と言われました。

この手術は最初の手術の1年後にあたります。

時が経つにつれて治る可能性がないのかなと思うと、焦りや不安を強く抱き始めるようになりました。右下肢にはこの頃から徐々に、痙攣や反射の異常など神経症状が現れ始めていました。

ドクターに不信感を抱き始めたり、メンタル面が辛くなってきたと感じることも。振り返ると、この時にはすでにCRPS(複合性局所疼痛症候群)だったのだと思います。

セカンドオピニオンで判明したこと

1度も競技に復帰出来ることなく、2013年9月頃にドクターからCRPSという病名を告げられます。この病名を調べれば調べるほど怖くなり、ここからセカンドオピニオン受診が始まりました。スポーツを経験したことがある人は、これまで打ち込んでいた競技に復帰できない虚しさや切なさといった気持ちにも共感いただけるかもしれません。

2012年11月頃、T先生からCRPSの専門医だとI先生を紹介されて、翌月にI先生がいる病院で検査入院を実施することに。その際に、右下肢(膝から下)の複数の神経が損傷していることが判明しました。


2013年1月 まずは足関節の内側と外側を同時に手術することになりました。この手術はとりあえず神経の癒着を剥がしたり、元の位置に戻したりすることが目的で、損傷してしまった神経の回復は見込めないと言われました。

度重なる手術と仕事の両立

このとき、私は大学4年生で体育教師を志願していました。そのため、4月には体育教師として働くことを目指してこの手術を決断することに。卒業(教員免許取得)後の就職先は、なによりも1番に志願していた母校に決まっていました。身体の回復のこともあったので安心感もありました。あと1か所(足背)の手術が必要な状態ではありましたが、3月末までI先生のもとでリハビリ入院を続けていました。

2013年4月には軽いランニングが出来るまでに回復し、母校という特別な場所で、念願の体育教師になることが出来ました。体育の授業と保健の授業、部活動指導(ソフトボール部の顧問)をしていました。そして学校が夏休みに入るタイミングの2013年7月に最後の1か所(足背)の手術をしました。夏休みは丸々入院になりましたが、術後の経過が順調ではなく、2学期に戻れるのだろうか…と正直すごく不安になったことを覚えています。夏休み前は軽いランニングが出来ていたのが、夏休み終了前には片松葉杖の状態での退院となりました。それでも、母校だったことや周囲の支えもあり、無事に復職することが出来ました。

新たな症状の出現とその後の経過について

秋を越し、12月頃には右腕の筋力低下(命令の伝えにくさ)や、肩の痛みが現れました。怪我をしたわけでもなく身に覚えがないのに症状が出てきたため、病院で検査をしましたが、器質的な異常はなく、医師からは「右下肢CRPSの蔓延」と言われました。


その後はというと、症状は改善されずI先生にも見捨てられました。途方に暮れ、病院や医師を調べては受診してみる!という生活が始まりました。次回は、調べては1度行ってみる中での気付きや身体症状の変化について、さらには新たなご縁について記事にします。

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どいちゃんの人物深掘りコーナー

私も教員免許持っているから共通点が多いと感じています。どいちゃんは、どうして教師になりたいと思ったの?大学時代、夢を諦めずに進んでこれた理由は何だと思う?

教師になりたいと思ったのは、運動バカで体育が楽しくて好きで夢も詰まってて、そんな空間を私も作りたいって思ったから!
夢を諦めずに進んでこれた理由
諦めるのは簡単やけど、諦めて楽になるモノじゃないし、走りたい!競技復帰したい!負けへん!この3つが私を突き動かしてたと思う!大学時代は、常に前を向かせてくれる大学のアスリハのトレーナーさんの存在も大きかったな!

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編集:齊藤 さくら(代表)

CRPS(複合性局所疼痛症候群)について

Doi chan

Writer: どいちゃん Doi chan

大阪府在住。小学3年生からソフトボールを始め、大阪体育大学を卒業後は体育教師として高校で勤める。11年前のケガをきっかけに右下肢と右上肢のCRPSを発症。90%車イス、10%健側でのケンケン、膝歩きで生活している。もう一度歩くことを目標に、日々のリハビリが趣味になる程強い意志を持つ。患者の想いを形にする事で、闘病仲間や親御さんの手助けにもなるはず。今後は患者の経験も医療に繋がると思うので、闘病仲間の心が完全に折れない支え合える場を創っていきたい。

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